明治10年、2月15日、鹿児島地方は珍しく大雪に見舞われその大雪の中、薩摩軍は熊本城を目指しました。西南戦争の勃発です。福岡の陸軍は、福岡城に衛戍していた3大隊のうち、2大隊は熊本の戦地へ赴き、(その中に吉松速之助がいた)福岡城を1大隊の兵士で守ることとなった。ここで、「西郷起つ!」」の知らせを聞いた福岡藩士武部小四郎と越智彦四郎は、今が機会とばかりに福岡士族を集めて福岡城に衛戍する陸軍へ攻撃し占領することを画策した。ところが、この決起に動いたのが二月、福岡城を攻撃したのが三月も後半になってのことだった。
ところがこの一月の間に政府軍は、相当なスピードを持って事に対処します。
さらに、不平士族がいつ暴発するかもしれないと福岡市内は、警備の兵士と警察官を増員させ、元福岡藩知事であった有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が薩摩軍掃討の総司令官として福岡城に本陣を構えるにいたり、兵員が増員されることとなった。
越智彦次郎の部隊は、図らずも有栖川宮を司令官とする防備を固めた福岡陸軍と相対することとなったのです。
1877年3月28日、越智彦次郎は、結局400人の予定が100人となり、作戦を大幅に変更し、その100人を二部隊に分け二手に分かれて福岡城を攻撃したが、その時はすでに相当な防備を固められており、あえなく退散した。南下して西郷軍に合流することを図ったが、途上秋月において政府軍と交戦となり完敗し、同志に自決を止められて豊前、日向と逃げて鹿児島を目指すが、4月5日に捕縛され、5月1日、福岡枡木屋の獄で斬刑に処せられました。享年27歳でした。
辞世の句は「咲かで散る花のためしにならふ身はいつしか誠の實を結ぶらん」
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