陸海軍の士官と言えば、軍刀は欠かせません。この軍刀といは何かを定義することは後日に譲ることとして、今日は大雑把な総論をひとつ。海軍は、短剣というイメージがあると思いますが、式典などではサーベル型、陸戦衣着用時には太刀型の軍刀を、陸軍では、はじめにサーベル型でしたが後に、日本刀本来の形に寄せた軍刀を使うようになります。
今では、剣道をやった経験のある方でも真剣を用いての抜刀術を練習されている方は少ないと思いますが、明治の陸軍の創成期時代には多くの陸海軍士官が武士の嗜みとして日本刀を使いこなしていたようです。昭和に入り大量に士官が必要になってからは、日本刀など全くと言っていいほど扱えない士官が続出して、持ってきた自分の刀で演習中に自分の足や手を切ってしまうものが続出して、特に陸軍はこれを深刻に捉え、陸軍戸山学校において、抜刀術をまとめて俄か士官にその練習方法を各部隊で広め教えていました。陸軍では、これを戸山学校から取り戸山流と呼び海軍では、兵学校では英心流と高山流という抜刀術を嗜んでいました。
しかし、戦後は、GHQの武道禁止令により、空手も柔道も剣道も中止された中、当然居合道も禁止されていました。平和になり徐々に柔道、空手、剣道が許されていく中、居合道だけは、その実践的な振る舞いに長く禁止となってしまします。
そこで、古武道とされる剣道袴を着用しての居合は、解禁されていきますが、中村宗家を中心とした戸山流の場合は、剣道袴を着用せず、上の写真に近い、足を固めてのズボン姿でその形を伝承しようとしたのです。しかし、ズボンに刀を差した状態では、GHQの去ったあとでも日本の警察に人殺しの稽古をしていると指摘され、より精神修養を重視する古武道スタイルが定着してしまいます。
着装が違えば、所作も違ってきます。写真のように鉄鉢(ヘルメット)を被って、腰に刀帯を取り付けたタイプと侍のように腰に差す状態では、抜刀のスタイルも全く変わってきます。
私達は、本来、戸山学校で取り組んでいた抜刀術を、現代的な思考から来るものではなく陸軍が取り組んできた操法を出来る限り現代の古武道的な思考を除外して、陸海軍の抜刀術の継承にも取り組んでいます。
当然日本の居合道から来るものですから、粗暴に刀を扱い、ただ切るだけのスタイルに陥らない精神性の修行を無視しては、道に外れることになりますので、そこは、注意が必要です。
もし、私達が、この陸軍戸山流のちゃんとした伝承に失敗した場合には、日本にはもはや陸軍戸山学校で行った直系の抜刀術は、(陸軍の装着方法に従ったもの)私達以外に修行する場所はなく、これも伝統文化を守る意味でもしっかり後世に伝えていかねばならないと思っています。