2019年12月31日火曜日

統制された兵士の姿こそ残しておきたい


陸軍に入隊して二等兵となれば、先輩の一等兵と生活をともにします。この単位を営内班と呼んでいました。これは、その営内班での写真です。下中央には、その営内の責任者である営内班長が映っています。営内班の写真は、その兵隊さんも同じ顔に見えませんか?この写真をお見せすると世代間格差がはっきり出て来ます。この時代をご存じの高齢の方々は、ニッコリされて、
「いやあ、懐かしかねえ」と嬉しそうにお話しされるのですが、現代人のほとんど99%近くの方は、「可哀そう。。」「何か陰湿な感じがする」「気の毒に、みんな戦争で死んどるんやろうね。」と仰います。
 
営内の二等兵と聞けば、軍隊の中では自衛隊でも軍隊でも最下位の階級で、新兵の階級ということでいじめの対象であったり、なにか営内の生活がどこか陰湿な感じを受けるのも良く分かります。
しかし、元日本陸軍のおじい様たちにお話を聞けば、営内生活は確かに厳しかったけど、最後までワクワクして毎日遠足みたいだったと当時の制服姿を自慢げに語る方が多かったです。
 この制服への現代人が持つ違和感というのは、私達が、戦後の映画やテレビの他あらゆる情報の中で勝手に作り上げられてきた日本軍への悪いイメージからの影響がたたき台にあり、保守系も左翼系も関係なくそれに染め上げられたという証拠だと思います。
この世代の持つ感覚の差に私達は、いつも正直に向かいたいと思います。
私達の目指す世界は、みんな同じ顔に見えるほど、個性を完全に打ち消されて統制された美しさであり、それこそが70数年前の軍隊の再現に必要なものだと思っています。地域の青年が所属する誉れ高い軍の姿であり、今後伝えていかねばならないものだと思っています。
映画などに登場する良く服飾された将校の姿よりは、この写真のような兵士たちの姿こそ後世に残していかねばならない文化の一つだと思います。






襟寸差2.5cmの悲劇



※特定のメーカーを非難するための記事ではありません。同じ問題を共有し改善するためのものです。

先日、私達の隊員のために仕入れた某メーカーの昭5式なのですが、襟が中心線より
今回も2.5cmも足りません。これを中央に寄せて着用することになると肩幅や胸囲の推定からすると首回りので2.5cmも足りないのはL寸の方はS寸の服を無理やり着るのとあまり変わりません。
「ひどい!」「そんな製品は、返品すればいいじゃないか!」と疑問も出てくると思いますが、ここに至るまでに支払った関税、消費税、国際郵便手数料が全部無駄になるということがあり、諦めて、前回お話しをした襟の改良方法で対応します。
「いやいや、関税は、再度返品のために輸出すれば、払った税金は戻ってくることを知らないのか!」とお叱りをうけそうですが、私達の払った関税レベルの返金をまともに審査してくれる税関があったら教えて欲しいくらいです。
まず、仮にまともに相手してもらえたとしえも、返品の理由、返品先証明書、返品の品の詳細な写真、輸出許可書、輸入許可書のコピーなど、これをすべて税関に赴いて手続きをしますが、絶対1日では終わりませんので、費用対効果を考えれば、私達のように国内で縫製をやり直して使用できる状態にするのが最善だと思います。
「では、初めから国産で対応すればいいではないか!」とのご指摘も、確かにごもっともなのですが、、国内では、この質感のカーキ色の服地は、なったく入手が出来ませんし、
残念ながら海外の縫製工場で生産された品物と国内縫製工場で生産されるものでは、価格が比較対象にすら出来ないほど開きがあります。
生地も東京や大阪の問屋街を探せば、確かに近いものはあるのですが、それは質感のよいコート生地で、士官用ならば使用できますが、とても大正時代の戦闘服とは思えない品のいいお坊ちゃまのような兵隊さんが出来上がてしまいます。
日本の丁寧な縫製技術による製品を採用したいのですが、私達のように練習で何度も着用して、繰り返し着用する軍衣袴と考えるととても国産を採用出来ないのが現状です。

私達は、前回もお話しをしましたが、この足りない2.5cm分を現在では使用できくなった生地から拝借して、私達が蓄積してきた襟の付け替え技術を駆使して着用ができる状態にしようと思っています。





2019年12月30日月曜日

士官服と兵下士官服



上の写真は、福岡歩兵第24連隊のある中隊長付き準士官、下士官の皆さんの貴重な写真です。赤の線で囲んだものは、下士官最上階級の曹長のもので、通常の兵下士官と若干の違いがありますが、軍衣袴が国軍である以上は、国の支給品であるという点が重要です。
これは、国際法上も非常に重要な概念で、当時は私費による軍閥や大地主の徴税権までもった地侍の延長のような兵、政府に反旗を翻して反乱する反乱軍としっかり差別化する意味でも兵の軍服を国が認めた基準の服を国が徴集した兵が着用するというのが、重要な構成要件の一つでした。
ところが、欧州の場合には、王のためにと応召した貴族の出身者、その縁のものと一般から徴収された兵とを区別する意味でも将校と兵は大きく分けていました。
これは、現場の事が何一つ理解できない指揮官が指揮棒を振るい、現場を混乱させ、現場で統率力を失うという十字軍依頼の法則が、複雑化して」、さらに集団力を要求される近代戦争の軍隊にとっては、大きな障害となった面が大きいと思います。
日本海軍は、ある程度この伝統を受け継いでしまった面があると思っているのですが、日本陸軍は、ドイツに習って将校も士官学校で本格的な将校になる以前に予科士官または見習い士官として兵と生活を比較的長期に経験させています。
これが、日本陸軍を構成する大きな背骨になっていったようです。
さて、服のお話しに戻るのですが、この写真には、黄色の線で囲まれた特務曹長の着用している服の写真と先ほどの赤の線で囲まれた曹長殿の服の写真と比べて頂きたいのです。特務曹長殿の服は明らかに士官の軍帽、軍衣袴で当時、この特務曹長と海軍の兵曹長は、今で言えば准尉として士官に準ずるものとして扱われていました。ですから、服は、下から上まですべて自費で専門の仕立て屋さんに注文して、今のような既製服ではなく、すべてオートクチュールして用意していました。実は、福岡城の近くには、このような陸軍将校の服装品を専門に仕立てていた洋裁店が数点あったのですが、今ではすっかり消えてしまいました。
英国では、あの背広の語源となったサビルロー街の専門店には、士官ご用達の服装店が未だ現存します。
陸軍将校と兵下士官では、赴きが同じように見えても、生地、ボタン、ポケットの形状、襟の高さ、襟の形状、袴の形状とすべて違うと言っても良いと思います。
今から考えれば、その威厳を保つ、兵と将校の一線を引くなどの一定の効果はあると思いますが、その存在が一目でわかる将校(士官)は敵からすれば、恰好の標的です。
儀仗隊も士官と兵下士官の服装は、はっきり違いが分かるようにしておりますので、
今度、見かけられましたら、そこも注目ポイントです。









2019年12月29日日曜日

儀仗隊員の襟が、ちゃんとしている理由


 昭5式の軍衣袴は、中国で製作されていることもあり、良く国内でも市販されています。しかし、それがそのまま着用に堪えうるわけではありません。その大きな問題が服の部分でもその価値を決めてしまうほど重要な襟の部分です。
大半のものは、左写真の→のように、右襟を左襟に持って行きホックを停めるのですが、結構、力を入れて右襟を左襟ももっていかないとホックが止まりません。なぜが、自分の寸法にしては、首が窮屈だと感じてしまい、しかも比較的簡単にホックが外れてしますます。さらに頑張って付けても〇印のように生地がねじれてしまいます。これは、襟が中央線に比べてお互い数センチ足りないために起こる現象です。
※(尚、上の写真は、襟の形を固定させるために士官用の襟カラーを付けていますが、実際は兵下士官は布の襟布と呼ばれるものが採用されています。)
私達は、普通の個人で所有されている方々よりは
数多く同型の服を検討し、実物と比較検討する機会に恵まれていますので、これらの理由が端的に分かります。襟の構成の基本が日本の襟と中華の襟の
作りの考え方が違うのです。中華の襟の場合には、襟を力で持っていき襟同志が引き合う力でホックを固定するという考え方に対して、我が国の襟は、右写真のように自然と人の方に服を乗せれば、自然と襟は、中央に寄り、あとはホックが自然にハマるくらいの間隔で作ります。
さらに、襟を実際の首に当たるほど締める中華服に対して、我が国の場合は、衛生的な問題もあり、襟布や士官のように襟カラーを付けて直接当たらないようにします。
後は、一度はハマったホックが外れないようにするにことが必要ですが、それはホックの付け方に工夫をするという大きな違いがあります。

皆さんが、購入された昭5式の襟がすぐに壊れる理由の大半は、これが理由です。私達は、襟を同型の生地で数センチ足してホックを取り換えて、自然に右の写真のように不動の姿勢をしても真っすぐの線になるように工夫しています。

平素では、気づいてももらえないことに、時間と労力をかけています。






2019年12月28日土曜日

儀仗隊員の銃剣


儀仗隊員の腰に付けているものが30年式銃剣といいます。歩哨の姿勢で立っている隊員が抱えているものが38式歩兵銃で、この30年式銃剣を装着でくるようになっています。当時、この30年式銃剣は、営内服を着て営内で生活する以外は、必ず装着していました。徴兵の兵士の中には家族への手紙に「私も、武士のように腰に刀をさせるようになりました。」と喜びを表していたそうです。士官は、必ず指揮刀ともいうべき軍刀をどんなときも、下げていましたにで、兵士にとっては、銃の先に付ける銃剣という以上の意味があったようです。
銃剣道でつかう木銃は、この38式歩兵銃に銃剣を装着したその長さと同じといいます。
これは、米国で海兵隊員に聞いた話ですが、海兵隊にも同じような銃剣術が伝統的に行われているのですが、実は太平洋戦争中日本軍の捕虜から教わったものだという話を聞きました。(歴史的な確証は、今のところとれていません)
儀仗隊員は、当時の慣習に従って30年式銃剣を同じように装着しますが、国内では、鉄製のものを装着することは、違法ですので、鉄製を装着することはできません。隊員が装着しているものは、主にプラスチック製やアルミ製のものを装着しています。
安全性を考えると当然ですが、装着したまま腰かけたり、ひっかけたりすると折れたり
曲がったりしますので、それはそれは気を使います。
1本1万円以上しますので、これで簡単に折ってしまっては、簡単には立ち直れないです。

2019年12月26日木曜日

儀仗隊員の軍帽




儀仗隊員が陸軍衣袴を着用する場合は、原則福岡24連隊が福岡城にいた時代を中心に編成していますので、主に昭和5式を着用しています。これから状況に応じて着装を98年式に変えたり、または明治の着装に変えたりと企画を考えていますが、まずは、資金面の問題もあるのですが、入手がそれほど簡単ではないということが一番の問題です。
(私達は、軍帽も護国神社衛兵隊により福岡市内の制帽店と当時の軍帽らしさを良く検討しながら作製をして頂いております。)
儀仗隊員が着用していますものは、昭5式の軍衣袴に合わせて帽子の天井の部分は、紺色から茶褐色へ変更し、横に歩兵の兵科を表す歩兵科 – 緋色(赤)の鉢巻きが巻かれてる明治45年改定のものを着用います。昭和5年の服押す改定時には、この軍帽の大きな改定は行われていません。耳章は、将校用ではないので、桜の耳章ではありません。帽子の中の蒸れを解消すべく今までにはなかった横穴が設けられています。
庇の部分は、兵、下士官用の大きな特徴として、上は牛革、下は豚の革を使用して厚みをしっかり持たせて作製されているという点にあります。
この軍帽の大きな特徴でもある庇の作製の難易度の高さから、国内でこれを安価で作製することは非常に困難です。庇の革の加工は、革加工専門業者に委託をして、作製して頂いていますが、現在の国内のカバンや財布といったハンドメイドを作製することが流行っているおかげで、牛革も豚革も価格が高騰して、私達の製作の難しさに拍車をかけています。
今度、儀仗隊員を見かけた際には、苦心して作製した軍帽に是非ご注目ください。

2019年12月25日水曜日

陸軍と福岡と有栖川宮熾仁親王





明治3年8月、
福岡藩の役人、六人が函館で逮捕された。
容疑は、偽札の太政官札(だじょうかんさつ)を十九万両所有していたためである。太政官札とは維新政府が発行した紙幣で、今でいえば偽札つくりを福岡県職員が県庁ぐるみで行っていたという事件です。
彼ら六人は軍艦、環瀛丸にて江差表や函館に赴き、偽札で昆布などの海産物を手に入れる途上で、政府によって逮捕され後、処刑されます。

※当時、明治新政府は、国内の財政窮乏を救うために不換紙幣の官札を明治元年に発行し、それを各藩や商人たちに貸し付け流通させていました。発行額も当初の計画だった三千万両から四千万両にものぼっていました。

さて、廃藩置県で福岡藩が廃止されたと同時に政府は、「宮さん、宮さん」の歌で有名な皇族の有栖川宮熾仁親王を福岡藩知事にします。そのまま福岡県知事となるが、皇族が地方自治体の長となった例は他にはないと思います。
ちなみに、王政復古後の新政府では、「総裁、議定、参与」の三職が設けられ、すぐに太政官制に移行する短い期間ではあるが、有栖川宮熾仁親王は総裁に任命されました。

西南戦争では、「鹿児島県逆徒征討総督」に任命され、一旦、福岡城へ本部拠点を構築し、その時に福岡の乱の鎮圧にあたり、官軍の総大将として西郷隆盛と対決することになった。
戦後、西郷隆盛に次いで史上2人目の陸軍大将に任命される。




2019年12月24日火曜日

福岡第24連隊の連隊旗


福岡歩兵第24連隊の連隊旗がそれを守る連隊旗衛兵に囲まれて、一段高い所へ連隊旗手が立ち、連隊長がその前に立って連隊旗へ恒例でもある連隊長の声明文朗読が行われている様子が撮影された貴重な写真です。これは、後ろの風景から兵舎より西側へくだったところにあった練兵場ではないかと思われます。
後ろに並び立つ兵で、戦後無事に帰国されて方の証言で連隊長は連隊旗の前で唱のようなものまで朗読されていたことを覚えているという証言が残っています。陸軍にとってこの連隊旗は、陛下より直接宮城で時の連隊長などに渡されたもので、陸軍にとって精神的な支柱であり、背骨で天皇陛下の分け御霊のような存在でありましたので、いつも特別の配慮がなされたようです。
この連隊旗を囲んだ連隊旗衛兵の並び方は、どの連隊もほぼ同じで、連隊旗の両サイドに二人、後ろに三人の合計5人が基本のようです。
この場合は、連隊旗衛兵は、雑嚢や水筒の装着をせずに背嚢のみを背負っており、如何に
背嚢が歩兵の装備の基本とされていたかが分かります。
連隊旗は、日清戦争や日露戦争の砲弾や風雪にさらされて、明治からの伝統の旗らしく、中はすっかり抜け落ちて無くなっております。
連隊旗の金の縁取りは、金属でなされていたそうで、旗の中身がなくなっても
ある程度は、旗の形状を保っていた様子がうかがえます。

儀仗隊兵員輸送車両


各地の慰霊祭の現場に指揮官を乗せた側車(サイドカー)を先頭に当日出動する兵員を乗せた兵員輸送車を追随して走らせて現場となる慰霊祭現場まで出動することを計画しています。
この輸送車両も近々で陸軍の輸送車らしい色に国防色に塗り替えられもっと雰囲気を醸し出してくれると存じます。
輜重兵の募集をしているのは、この兵員輸送車両と将校運搬用の側者(サイドカー)の運用に必要な点検、整備、運転等の支援をしてくださる方です。

今年は、側者(サイドカー)の先導で、兵員輸送車を会場まで走らせ、現場に到着した際は、このトラックの後ろの荷台から兵隊たちが出てくるという、当日の雰囲気を少しでも醸し出したいと思っています。

国防色に変った兵員輸送車両の姿は、後日ご報告いたします。



2019年12月23日月曜日

陸軍兵用背嚢(2)


この写真の背嚢は、昭和5年の改定時に牛皮革で覆われたものから防水帆布に変わったときのものを再現したものになります。

陸軍の兵士が背負う背嚢は、ランドセルのようでもありますが文字通り幕府軍の時代にすでにこの背嚢のことをフランス式ランドセルと呼んで公式な文書にも残していたようです。
ランドセルってそもそも外来語ではなのかという疑問が当然わくのですが、ランドセルはオランダ語のようです。ですからすでに軍隊が使用する以前から、貿易等によって我が国ではこの背嚢のことをランドセルと言っていたのかもしれません。明治新政府もフランス式ランドセルを採用し文書には、歩兵用、工兵用、砲兵用と分けて採用していました。写真の背嚢は、1844年時に採用された時から、中に木枠を設けて形の崩れないように形成し、長いベルトで装具と供に閉め、表は牛毛皮で多い雨に中が濡れないようにするというフランス陸軍のもののほぼコピーを採用していました。
昭和5年の改定により牛毛皮が帆布製のものに変わりました。この帆布には、完全防水茶褐綿4号という名称があります。この昭和5年というのは、被服も大改正が行わており、この背嚢の改正も同じ流れに乗って行われました。表面の牛毛皮の使用はなくなりましたが、その背当部分には、牛毛皮を使用していました。日本陸軍の背嚢は、欧州の陸軍は早い段階から帆布製のものを採用し、ご当家のフランスでさえも牛毛皮の採用を止めていました。日本陸軍がその高い防水性の信頼性がら長く牛毛皮製を採用していましたが昭和5年になり兵員の増員が必要になるとともに高い信頼性の防水性の高い帆布が開発されたことにより改定されたと考えられます。しかし、上海事変が起こったころの陸軍の戦闘は一変し、近代兵器の出現により防水性よりは機能性を求められるようになり、この背嚢はすこぶる評判が悪くなります。

儀仗隊へのご協力のお願い


私達の年間の様々な儀仗隊としての活動に賛同して頂き、かつ応援して頂ける方を募集しております。(地域は問いませんが、ご相談ください。)


1 儀仗隊員の募集
  英霊の顕彰に理解があり、ある程度の運動のできる男性の方 特に年齢も国籍は問いません。特に未成年者の方は、別途ご相談ください。

2 側車搭乗員募集
 サイドカーの運転のてきる方で軍装して将校を乗せて運転の出来る方

3  輜重兵募集
兵員輸送車の運転や整備の出来る方 、兵員を乗せて運転のてきる方、車両の運営の支援の出来る方

4  報道員募集
撮影の出来る方 、活動の様々な記録を残す為に撮影機材の設定と撮影の支援の出来る方など

是非とも、皆さんの力を結集して全国の護国神社でも各地で各々の儀仗隊が活動できるようにも支援の輪を広

げたいと思っております。私達の活動の中心は、福岡を中心とする北部九州ですが、もし、地域外の方でも

先ずは、お尋ねください。

hakata1air@gmail.com




2019年12月22日日曜日

福岡陸軍と越智彦四郎



明治10年、2月15日、鹿児島地方は珍しく大雪に見舞われその大雪の中、薩摩軍は熊本城を目指しました。西南戦争の勃発です。福岡の陸軍は、福岡城に衛戍していた3大隊のうち、2大隊は熊本の戦地へ赴き、(その中に吉松速之助がいた)福岡城を1大隊の兵士で守ることとなった。ここで、「西郷起つ!」」の知らせを聞いた福岡藩士武部小四郎と越智彦四郎は、今が機会とばかりに福岡士族を集めて福岡城に衛戍する陸軍へ攻撃し占領することを画策した。ところが、この決起に動いたのが二月、福岡城を攻撃したのが三月も後半になってのことだった。
ところがこの一月の間に政府軍は、相当なスピードを持って事に対処します。
さらに、不平士族がいつ暴発するかもしれないと福岡市内は、警備の兵士と警察官を増員させ、元福岡藩知事であった有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が薩摩軍掃討の総司令官として福岡城に本陣を構えるにいたり、兵員が増員されることとなった。
越智彦次郎の部隊は、図らずも有栖川宮を司令官とする防備を固めた福岡陸軍と相対することとなったのです。
1877年3月28日、越智彦次郎は、結局400人の予定が100人となり、作戦を大幅に変更し、その100人を二部隊に分け二手に分かれて福岡城を攻撃したが、その時はすでに相当な防備を固められており、あえなく退散した。南下して西郷軍に合流することを図ったが、途上秋月において政府軍と交戦となり完敗し、同志に自決を止められて豊前日向と逃げて鹿児島を目指すが、4月5日に捕縛され、5月1日、福岡枡木屋の獄で斬刑に処せられました。享年27歳でした。
 辞世の句は「咲かで散る花のためしにならふ身はいつしか誠の實を結ぶらん」



大隊長吉松速之助少佐の場合

吉松速之助、土佐藩出身で戊辰戦争の時は、土佐部隊に隊長を務めていました。NHK「八重の桜」をご覧になった方ならば、有名なシーンなので覚えておられると思いますが、会津藩の軍事奉行、神保修理の妻雪子は政府軍と徹底抗戦の上、辱められた上に木に縛りつけられているところをこの吉松速之助が側を通り、哀れに思います。



吉松速之助 『女ら殺したち、なんちゃあならん。命を助けるよう、わしが掛けおうちゃる』
神保雪 『御無用でごぜえやす。それより脇差をお貸しください』
吉松速之助 『おまん、名はなんぜよ?名ある武士の妻か。言うたら、夫の恥になるかえ?』
『三途の川を渡る時は誰それの妻と堂々と名乗りや』

というと短刀を渡しましたら、躊躇うこともなく見事に武士の妻らしく果てて逝かれました。
さて、この吉松速之介は、小倉第14聯隊から2大隊を福岡城へ派遣されましたが、その時は、大隊長として少佐に昇進していました。1877年の西南戦争が勃発すると、福岡城から熊本城を目指して行きました。皆さんご存知のその途中の田原坂で薩摩軍の急襲にあい、
小倉時代の友人だった乃木希典大将とはその時に軍旗を奪われています。
動揺した乃木に現場を離れて連隊の立て直しを図るように促しますが、吉松少佐は、20名の部下とともに現場に留まり、負傷し、その傷がもとで死去しました。

彼も福岡縁の武人です。




2019年12月21日土曜日

衛兵隊の意義は、ご英霊を顕彰する事にこそあります。!!


護国神社も靖国神社も、御霊祭り等を通して、そして各地慰霊碑においても共通して行われていることは、慰霊です。英霊の魂をお慰めする事です。

慰霊とは、辞書で調べれば事故や戦争、災害などで亡くなった人や動物の霊を慰めることあり、そこに建立された石碑は慰霊碑であり、 鎮魂碑などともいう。 霊を慰めるためや、二度とそのようなことがないように戒めることや、警告といった意味をもち、それに沿った文言が碑文として刻まれるとあります。

これに関して、私たちは何も申す事はございませんし、そのような宗教観でお詣りなさることもまた大事と思います。しかし、元々、護国神社も靖国神社も”お国”のために、命を投げ出された方々へのその勇気を称え、ご苦労に感謝申し上げるという顕彰の施設だと考えております。
この英霊に対しての顕彰こそが、護国の英霊への祈りの柱だと固く信じております。
場合によってはと御断わり申し上げますが、慰霊と申して、英霊の魂をまるで可哀そうな存在であるかのように申し上げることは甚だ無礼なことだとも考えています。
されど、私たちの活動を戦争を賛美しているとか、排外主義的、民族主義者との勘違いを受けたりすることの多い今日に、顕彰と申しましてもご理解を賜ることは大変難しいことは重々承知しております。
しかし、私たちは、儀仗を通じて、護国神社や靖国神社を顕彰施設と捉え、各式典にはご英霊に報恩と感謝申し上げる顕彰をこそが柱と、賛同いただく方が一人でも多く増えましなら、きっとご英霊の皆様へご安心していただけるのではないでしょうか。

※写真は、熊本護国神社宮司様と軍旗衛兵隊との記念撮影




福岡市民必見の映画「陸軍」(3)



映画「陸軍」の中庭のシーンでは、兵士が小隊長と思しき若き少尉の下に整列している様子がうかがえるのですが、この兵舎は、どの兵舎だったか、兵士はどちらを向いて整列していたかは、模型と照らせば非常に良く分かります。兵舎を流すように撮られているのですが、その兵舎の屋根の部分を見ると煙突から大きな煙が出ているのが確認できます。
この連隊の建物の中で、大きな煙突から煙を出すものといえば、模型でも確認できる風呂場に間違いなく、兵士が並んでいた背景にある兵舎は、南側にある二つの兵舎の内、隊門側のものであり、その背後にはすぐに風呂場の煙突が模型で確認できます。兵士は、中庭に護国神社を背にして、小隊長は、今の大手門3丁目側の北側を背にして立ってことが確認できます。



この映画では、兵舎の営内の点呼のシーンがありますが、上の写真のように、営内班長が宮城へ最敬礼を命じるシーンがありますが、ここでこの班長の襟章が福岡歩兵第24連隊のものであることが確認できます。これも福岡の郷土史に残る貴重な映像となります。



福岡市民必見の映画「陸軍」(2)


映画「陸軍」で、兵が小隊長と思しき少尉の指揮で兵舎の間の中庭に整列をするシーンがあるます。この中庭は、下の写真の方かなのコの字にならんだ兵舎の間にあり、練兵にも使われたようです。兵舎の間の中庭は、芝生の庭園のようにも思えるのですが、上の写真のように草が比較的背が高くなるほど生えていることが確認できます。当時の連隊長赴任の挨拶の写真など、後に紹介しますが、その際には、この中庭の草がくるぶし辺りまで伸びています。ここでも、簡単な演習や訓練を行っている写真も確認出来るので使用するのに、伸びている方が都合が良かったのではないかと思われます。
上の写真の上部に城の櫓のようなものが見えますが、現在、このような櫓が残っておりませんので、はっきり分かりません。少尉の立っている位置から推測しますと、下の写真で上部に将校集会所が丘の高いところに周囲を見渡せるような二階建ての建物がありましたので、その屋根の部分が映っているものではないかと推測しています。
※後に、福岡城の見識のある方に、お聞きして調査したいと思っております。



上の写真は、小隊長に相対する形で整列している様子が映画で確認できます。連隊には、長い2階建ての兵舎があり、上の模型の写真でも確認できるのですが、当時の建物にしては非常に横に長いしかも特徴的な大型の兵舎が当時あったことをこの映画でも確認できます。この映画のように兵舎の大きさが敢えて分かるように撮影されており、秘匿事項の多かった時代にしては、非常に貴重な映像です。


2019年12月20日金曜日

陸軍兵用背嚢


儀仗隊員が背負っていますランドセルを陸軍では背嚢(はいのう)と呼んでいました。
写真は、昭5式背嚢と呼ばれる防水帆布で作られたものを使用していますが、この昭5式の前の明治45年式背嚢は牛革を使用しており、毛皮で雨を弾くという贅沢な発送で考えで作られました。当然、軍拡により兵の徴収が拡大する中、牛皮を使う事をやめ帆布に変えたこので更に、大量生産が出来るようになりました。中には、戦地等へ移動する場合には、兵士として必要な物を背嚢の中に入れていました。
兵下士官は、この背嚢を国家から支給されていましたが、将校は革製で出来た将校用背嚢を自費で購入し、準備をしていましたが、将校の革製背嚢は、実質、身の回りのものと言えば、歯ブラシ程度のものしか入れておらず、マップケースの延長線として使用していたようです。
儀仗隊員は、儀仗で兵が参加する場合には、当時の儀仗衛兵は必ず背嚢を背負ことが決まりであったので、私達儀仗隊員も、同じように背嚢を背負い、その背嚢には、個人用毛布と巻き付けておりました。


福岡市民必見の映画「陸軍」


昭和19年(1944年)製作された木下恵介監督作品、映画「陸軍」は、大東亜戦争開戦三年目の年に撮影されたもので、当時の一般家庭のお国の為と堅実に生きる姿を描いた普及の名作です。
この家族の長男が陸軍に入隊して出征していくまでを描いているのですが、この映画に登場する家族は福岡市内に住んでいるというのが設定となっており、長男が入隊する部隊は、福岡第24連隊であります。兵隊が兵舎の前に整列したり、営内において点呼をするシーンなどがあり、それはすべて24連隊の兵士が務めたそうです。当時は、まだ戦時下ですので、映画も厳しい管理下に置かれていました。当時の日本人が一般的に自然に思っていたであろう国への思いやそれに向かう家族の気持ちなどが感動というよりは感心するほど上手に描かれています。
この映画は、ラストシーンに当時の24連隊の兵士がボランティアで昭和通りを行進し、今の赤煉瓦文化会館の横を通り、那珂川の西中島橋を渡るところまでが描かれていて、その行進する息子を含めた兵士に彼らの背中を手を合わせて祈る母の姿は、とても印象的でいつまでも映画史の残る名シーンです。

右の写真は、長男とその友人が分かれ当時通っていた路面電車に乗り込むシーンです。この後ろに見えるのが、福岡城の潮見櫓の前の城内入り口でその奥には、連隊の特徴的な2階建ての長い兵舎が見れます。
福岡市民必見の映画です。

権藤久宜少佐の記録



ロシアへの宣戦布告が行われる直前に、福岡歩兵24連隊は、日清戦争で活躍した朝鮮半島韓国臨時派遣隊として出陣の準備をひそかに行っていました。その際の記録が歩兵24連隊第3中隊中隊長、権藤久宜大尉のものとして残っています。大尉は、明治36年(1903年)に陸軍大学校大17期の首席として卒業された若きエリートで、福岡市内の警固に居住され、多計子夫人と父、子供お二人と暮らしておられました。二月のある日いつも通りに週番司令を務めた後、またいつものように帰宅して就寝していると「直ちに営内へ集合せよ」との非常呼集を受け、それに応じて急いで身支度をしていて、婦人に「営内へ行ってくる」と言い残して家を出ていかれました。何も動揺することなく素早く身支度して出て行かれた様子から、おそらく、近々で出征する可能性のあることをご存じだったのでしょう。その翌日、中隊長付きの従兵が自宅へやって来て、
「中隊長殿が将校行李(こうり)を持ってくるように命ぜられました」と告げたどうです。行李とは、写真の如く、私物や制服、着替えなどを入れるスーツケースのことで、明治の時代だけではなく、昭和の時代でも将校は、このようなスーツケースを所有していました。その写真の中の解説では与えられたと書いてありますが、すべて将校は、これらを自費で用意していました。
中隊長は、従兵は、奥様へ裏側に走り書きのように書かれたご自身の名刺を渡すとそこには「今日、出征の途へ上る。停車場への見送り一切無用」と書かれていたそうです。
やはり、いかに隠密裏にしかもあわただしく出征されたのかが分かります。

権藤中隊長は、日清戦争の時は、連隊旗手を務め、特に旅順攻撃の武勲により金鵄勲章を受けておられた軍人で、記載の通り、陸軍大学を首席で卒業され、日露の戦役に従軍されておられますが、その後の明治41年(1908年)に死去とあり、非常に若くして亡くなられておられます。
陸軍大学の記録では、少佐に昇進した旨ありましたので、あえて表題には少佐と記述いたしました。


軍人が授与された最高勲位の勲章、金鵄勲章5等

陸軍連隊旗(軍旗)と海軍旗


儀仗隊が福岡護国神社、谷公園の陸軍墓地慰霊祭に参加する場合には、陸軍歩兵第24連隊の連隊旗を奉じて参加を致します。その際、陸軍の慣習で連隊におけるいろんな役目を各中隊が当番で、風紀衛兵、外衛兵、内務衛兵を取り決め連隊の維持管理に努めていましたが、その際にこの連隊旗(軍旗)も衛兵が取締と管理、維持に努めておりました。
特に連隊旗をお披露目する際には、中隊でも将来を嘱望された新任の少尉が当たっており、大変名誉とされていました。前回の谷公園の陸軍墓地の式典には、新任少尉の被服と装備品が余り合わず、兵の着装の隊員が旗手を務めておりました。次回までには、着装をさらに史実に近づけておきたいと思います。

この写真は、毎年恒例の宇佐海軍航空隊における慰霊祭の様子ですが、海軍の場合には大きな軍艦旗を陸上における儀仗隊も陸戦隊も掲げていました。海軍の場合には、基地の中でもその最先任の上級下士官が当たることになっており、これも同じく大変名誉なこととされていました。私達が式典で使用するものは、これでもかなり大きいのですが、実際はさらに大きいものを使用していたようです。写真の海軍旗は、唐津の軍人会「桜花会」から託されたものを掲げており、この旗で旧軍人の方達は、数多くの慰霊祭を行っておられました。

旅順陥落の光と影


1894年(明治27年)11月20日、大山巌大将率いる日本軍2万5千の兵士は遼東半島最大の拠点である旅順の攻略作戦を開始し、これをたった一日で占領した。これは、清軍が海側の防御は重砲や軽砲、機関砲などで固めていたのですが、背後の山側の防備はほとんど出来ておらず、これを日本軍に突かれる形で殲滅しました。ここで、旅順要塞があっけなく落ちてしまったのは良いのですが、大量の敗残兵が旅順の街へ流入し、さらに、遼東半島へ進撃して以来、逃げ続けた清軍兵士もここ旅順の街へ逃げ込んでいました。
その際に、負傷して置いて行かれた日本軍兵士等が清軍に捕まり、首を撥ねられたり、耳を削がれたり、手足を切り取られたりと非道の数々に日本軍兵士の復讐心も最高潮に来ていました時のタイミングで旅順の街の敗残兵掃討の命令が下されます。
そこで、その命令が下されたのが福岡歩兵24連隊の兵士たちでした。
今の西日本新聞、当時の福岡日日新聞にも復讐心に燃えた福岡の兵士の事が記事にされていました。
しかし、この敗残兵掃討は、清兵が軍服を早々と脱ぎ、民間人を装い兵士に襲い掛かるので当時の24連隊の兵士は非常に戸惑ったようで、その事を手記にしたものが記録として残っていれうようです。
当時の第1師団長の山地中将が、「これより我が軍は、敵の敗残兵の掃討を開始する。それに辺り、これを妨害するものは、市民と言えども残らず殺すべし。」との指示を出しています。24連隊の兵士の手記に死体が累々と築かれ、それもなにも感じなくなったと書いてあったようです。この錦絵は、敗残兵討伐の時のもののようで、今で言えばテロ行為を行っていた残党狩りが命ぜられ、その処断の様子を描かれたものです。
この事を、日本軍に従軍していた外国記者が「日本軍は清軍と変りなく野蛮である」書かれ、これが世界中に広まることになります。外国人記者の記事は、非常に残酷に誇張されており、後に中国側の残した記録に及んでは、おおよそ日本人の所業とは思えぬ記載内容に、その信ぴょう性は非常に疑わしいのです。その記録は、複数ありますが、その内容に一貫性がなく、未だ作戦行動中の軍隊に記述されたような勝手な振る舞いがゆるされたはずもなく、記述者の憶測も多い所から歴史学的には、参考程度にしかならないものが多い。
しかし、この記事に政府が大きく動揺し、連隊の名誉を結果的に傷つけたことは間違いないと思います。

これよりわが軍は、敵敗残兵の掃討を開始する。それに当たり、これを妨害する者は市民といえども残らず殺すべし。」



2019年12月19日木曜日

弾薬盒の中身


儀仗隊が腰に巻く弾を入れた革製の箱を二つ、後ろに一つ弾薬盒(だんたくごう)と言う弾入れを携帯しています。その箱の中には、右に30発、左の30発、後ろに60発の合計120発の弾を入れていました。
勿論、儀仗隊員の実際に巻いている弾薬盒に実弾は入っていません。この写真は、
テキサスに研修に行った際に、こちらから持参した弾薬盒に実弾を入れてみた際のものです。
さて、三八式の場合、5発で一組のクリップで止めた弾をさらに弾薬盒の中が仕切られていて。写真のように5発の入りのクリップが前の弾薬盒の右マスに3組、左のマスに三組の合計6組となり、先ほど言いました1組に5発ですから、合計30発が一つの弾薬盒に入っています。
そこから写真のように、5発1組のクリップを取り出して小銃の中に装填します。



小銃のボルトを引き、クリップを写真のように固定して、銃弾をそのまま指で押し込みます。
すると、小銃の中に5発装填でき、ボルトを引いて5発連続で射撃できます。
米軍の小銃のようにボルトを引かずに射撃することはできませんが、当時でもこのボルト式の
銃が世界では主流でした。
小銃の弾薬数の少なさをしばしば指摘されるのですが、この弾薬は、写真で確認してもらっても比較的大きく、これを120発携行して、20kmも30kmも行軍することを考えれば、兵士はかなりの重量に感じたはずです。



2019年12月18日水曜日

福岡連隊正門付近の写真



写真のA(左上)は、今も残る福岡城潮見櫓で、ここに連隊があった時代には、連隊衛戍地へ向かうための通用門でありました。この写真は、潮見櫓から城の外へ向かって喇叭卒が数名行進して行く姿が映されています。櫓が今のように再現されておらず、門の前には衛兵が立てるようになっています。
写真のB(中央)は、福岡連隊の正門の写真で、門のすぐ右手に見える建物は准士官や下士官の集会所だったようです。米軍基地などにあるNCOクラブと言われるものがこれに当たります。
写真のC(下)は、Bの正門を西に行くと小高い丘になっており、そこは将校集会所だったようです。写真では、将校がくつろぐ様子が良く撮られています。米軍基地の将校クラブのように贅沢ではありませんが、梅の花など愛でたり、高台の2階建ての建物からならば、福岡城からある程度の景色を当時なら楽しめたのではないでしょうか。茶室などあったのかもしれません。
以前のブログでも書きましたが、この連隊の正門は、この将校集会所の丘の下に折れた状態で埋もれて今も無残な形で置いてあります。





万朶の桜か襟の色

万朶(ばんだ)の桜か襟の色 
花は吉野に嵐吹く 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば 散兵戦(さんぺいせん)の花と散れ

儀仗隊員は、陸軍縁の式典には、この詰襟の軍衣を着用して参加いたします。
次の式典では、このありに注目をして頂くと嬉しく思います。
さて、この詰襟に付いています赤い襟章は、その兵士が歩兵であることを指ししています。陸軍は、その性質上様々な職種に分かれていて、一般的な歩兵、大砲を扱う砲兵、騎兵、航空、主計、憲兵、看護、医務、法務などの職種によってこの襟の色を変えていました。儀仗隊員は、歩兵科の赤を着用しています。襟章には、24という番号が見えますが、これが明治19年に福岡城にて設立された歩兵第24連隊の連隊番号を表しています。これが、上海事変も第2次事変あたりになると詰襟が欧州では、折り襟が流行り出すのを受けて、この付け襟に折り襟を付けたタイプに変えていきます。
この辺りから、連隊名や部隊名を秘匿するようになり、最初は、折り襟にこの写真よりも小さな連隊番号を付けていましたが最終的には、番号も付けなくなり、さらに秘匿された部隊番号のみとなり、見た目、兵士がどこの部隊で職種が何かさえ分からなくなりました。
これは、明治時代の日清、日露戦争時に着用していた陸軍の兵士の服ですが、肩に連隊名を表す肩章が付き、襟には、その職種を表す色が襟をグルリと囲んでいました。
昭和の詰めりの襟章は、この明治時代の名残であることが分かります、。昭和は肩に階級章を付けていたのですが、明治時代のものは、袖についています。
各連隊で手柄を競っていた時代ですので、連隊名が秘匿されていた時代に比べて肩に活躍した兵士の所属連隊名が大きく付いています。

最初に紹介しました詩は、歩兵の本領と言われる軍歌の一節で

万朶(ばんだ)の桜か襟の色 
花は吉野に嵐吹く 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば散兵戦(さんぺいせん)の花と散れ

万朶とは、すだれ桜のことで、武士の道を桜にたとえるが如く、この歩兵の兵科を表す襟章を例えています。
吉野とは、あの豊臣秀吉も花見をしたとして有名な奈良の吉野山の桜のことで、その桜の花の散りゆく様を、兵士も同じように勇ましく散ろうと謳っています。

当時陸軍では、やはり歩兵が花形と言われて、歩兵以外の兵科になることを恥じたと言われています。


ついに福岡連隊模型との対面


陸上自衛隊春日駐屯地、広報室に福岡城の模型があります。これは、城というよりは、福岡連隊の姿を記録する貴重な資料です。
福岡連隊は、明治19年に連隊へ格上げされて以来、明治時代から終戦まで、福岡の陸軍の衛戍地として兵を徴収して育成し、山笠などの御祭では市民と共にお祝いして、城とは塀を隔てていますが生活を共にし、戦時には、そこから各戦地へ移動していきました。
この模型は、兵舎や連隊本部、陸軍病院の位置まで非常に良く分かるように作られており、福岡城にあった陸軍の様子が手に取るように分かります。福岡の陸軍の研究などをなさる方には、一級品の資料となります。
これは、福岡駐屯地の広報室があまり一般に開放されていないという性質上、あまり知られていません。西日本シティ銀行の公式ホームページに当時の連隊の様子が書かれていますが、そこで挿絵となって登場してくるのがこの模型の白黒画像だったので、ひょっとすると天然色ではこのブログが初めての紹介となると思います。


この写真は、大手門交差点の通りの様子を示しています。この大手門交差点は、このまま入ると福岡城跡を左目に身ながら、福岡護国神社へと繋がっております。
当時は、この道路も交差点もなく潮見櫓を通らなければ、城内に入れなかった様子が良く分かります。


模型によれば、潮見櫓を通って将校会館を右に見ながら、奥へ進むとすぐに隊門があり、それがどちらを向いていたかなど、実際の写真と比べれば非常に良く分かります。兵舎より護国神社側へ行くと天守閣へつながる城壁の前に白い煙突が見えますが、それはお風呂場であったようです。
さらに、2階建ての横に長い兵舎が確認できますが、木下啓介監督の映画「陸軍」でも、連隊本部停車場で撮影されたので、路面電車の様子だけではなく、背景にこの兵舎が映りこんでいます。
この模型は、資料と照らし合わせる上で非常に貴重なものとなります。



2019年12月17日火曜日

あの旅順を陥落したのは、歩兵24連隊!


1894年に始まった日清戦争にいち早く大きな手柄を立てたのは、福岡歩兵24連隊でありました。当時、大山巌大将を軍司令官にして第2軍混成第12旅団の隷下に24連隊は所属していました。
同年11月、24連隊を戦闘に旅順への総攻撃を開始し、連隊長以下連隊の兵士たちは、連隊旗を必ず二竜山頂上に押し立てるのだと息巻いていたようです。しかし、激しい敵の砲撃や銃弾の雨は、流石の24連隊も進撃の歩みを止めてしまいました。そうしていると味方の夜戦砲兵部隊が駆けつけ、砲撃を開始、その援護を受けるないなや、ここぞとばかりに軍刀を抜き吉田連隊長は、「軍旗護衛は、第三中隊の1分隊のみがこれにあたり、他のものは全員敵陣に突っ込め」と叫び、この命令を受け連隊の各兵士は突撃に次ぐ突撃を敢行して、二竜山砲台を占拠して、そこで大きく連隊旗を振りその栄誉を大きくアピールしました。
この事により、福岡の連隊は、日本陸軍至上、最強であるとの評判が全国に広がりまりました。上の絵は、日清戦争時の活躍を描いた錦絵の画集の一つで旅順の攻防を描いたものです。旅順をほぼ単独で陥落させたのは、福岡24連隊であるところから、ここにあがかれている連隊旗は、24連隊のものである可能性が非常に高いです。
旅順陥落の時、福岡市警固に居住し、連隊旗手だった権藤少尉は、このことで金鵄勲章を授与されています。

仁川に上陸した第2軍混成12旅団の各連隊は、仁川から約45キロある京城を目指すことになるのですが、24連隊吉田連隊長は、「一刻も早く京城に入れ、他の連隊に後れを取るな」と激を飛ばし、他の連隊は上陸後一泊する中、夜を徹して京城をまで歩き続け出兵の当時から24連隊強しとの評判が高かったようですが、旅順攻略のおかげで「九州に24連隊あり」「陸軍至上最高の連隊」との名声に繋がる事になります。






2019年12月16日月曜日

26年式拳銃


儀仗隊の将校が古い時代の着装をする場合に携帯しているのが26年式拳銃のモデルガンですが、写真はテキサスで撮影した実物です。時代は、1890年明治23年に陸軍に採用された9mm弾を使用したリボルバー式拳銃です。当時の主流とされた引き金を引くと弾頭を発射するための薬室を叩くハンマーも同時にあがるダブルアクション方式をとっています。構造が非常に簡単なので壊れにくかったと言われています。大きな特徴は、リボルバー(回転式)とされるそのシリンダー部分の動きを止める爪がなく、撃つ時々でずれを生じさせる可能性が非常に高く、現地でも全段無事に打ち尽くすことが稀でした。


銃弾を打ち尽くした後は、写真のように銃を折れるようになっており、カラの薬室を
取り出し新しいものと交換していました。弾は6発入れれるようになっていますが
自動拳銃のようにマガジンさえ交換してしまえば、次の発射に簡単に備えられる方式とくらべると、意外にある程度の重量のある弾を入れるのには手間暇がかかってしまいます。
226事件でも使用された拳銃で、鈴木貫太郎首相を至近距離で撃ったにも関わらず致命傷になっていなかったのは、銃の威力が少なかったからではと言われています。
26年式拳銃の薬室は非常に小さく小型で、同じ中折れ式のエンフィールドと比べれば
その破壊力は小さいと言えるのですが、将校が以降好んで所持した小型拳銃からすれば十分な威力だと思います。




26年式拳銃のさらなる特徴は、写真のように非常に構造が簡単であることで、分解整備も非常にやりやすいです。価格も当時は、比較的安価だったというのが納得できます。
しかし、この分解の簡単さなどが、砂地では簡単に根詰まりを起こし、機関不良をすぐに起こすという難点を孕んでいます。



2019年12月15日日曜日

毎月の練習会


本日は、儀仗隊員の年内の総決算のような練習を実施しました。
儀仗隊員は、毎月一度公民館のご協力で貸切状態で練習会を行っており、1年かけて
積み上げてきた結果の総合確認を行いました。
各隊員は、月一度の練習会だけではなく、各員でそれぞれ練習してはいますが、やはり集団行動の統制力こそが大事なのでしっかり集まって動作を確認する練習を心がけています。
各地慰霊祭等でご参拝頂く方は勿論ですが、やはり英霊の名誉を汚すようなことがあってはならないと心に決め、しっかりとした統制力をお見せできるようにしたいと思っております。
儀仗隊の動きは、今の自衛隊のファンシードリルのような華々しさはないのですが、地味だが無駄のないシンプルな動きにこそ大和心が挙動の一つ一つで現れています。
地味な動きだからこそ、動きに乱れがあると本当に良く目立ちます。
まだまだ課題が多いのですが、しっかり頑張っていきます。

儀仗隊員の装着している装備品は、当然、現代に製作されたものですが、その内容は当時の陸海軍兵士が装着していたものと同じですので、兵士と同じ手順の整備が必要になります。どのようにすれば、しっかりとした姿をお見せできるかを工夫しながら日々の準備を整えております。




2019年12月14日土曜日

福岡城にあった連隊


福岡城潮見櫓を潜ると福岡護国神社側へ向かう道路を挟み福岡国際マラソンの出発地として有名な陸上競技場があります。その陸上競技場の脇に、福岡第24連隊を忍ぶ備忘石碑が置いてあります。日露戦争開戦時、仁川から上陸し京城へ向かいいち早くロシア軍と戦闘し、その勇ましい戦歴は全国に知れることとなった福岡の連隊は、ここで招集された兵隊を育みしばらくは市民生活とともに生活を分けていました。


当時は、この潮見櫓を潜ると石柱で作られた営門があり、その隣には衛兵が出入りを管理しておりました。営門に入れば、すぐその左側に、兵の出入りや業者の出入りを管理する衛兵が詰めておりました。門の手前の右側には、英国のバッキンガム宮殿で御馴染の衛兵のように詰所に衛兵が立っておりました。



非常に残念なことに石柱は、写真のように粉砕されて潮見櫓を正面から潜った脇に目立たぬように放置されています。是非、有志の方々で再現してお飾り頂きたいものです。


営門の写真をもう一度見て頂くと、その奥には、良く手入れの行き届いた桃の木が置いてありました。この桃ノ木は、福岡歩兵24連隊が満州へ行った後、編成される124、113連隊などとともに、兵士たちに大事にされた桃ノ木で言わばマスコットのような存在だったようです。この桃ノ木は、今でも連隊の石碑の後ろに、訪れる人に気づかれることもなく
転落防止のロープの外に植え替えられています。この桃ノ木は、多くの兵士をその門から見送ったのです。



2019年12月13日金曜日

儀仗隊員の小銃



儀仗隊員が持つ小銃は、陸軍の服装をしている場合38式歩兵銃、海軍の服装でも昭和19年以降であれば99式短小銃、それ以前であれば38式小銃と区別して式典に臨むようにしています。儀仗隊員が実際に式典で持っているものは、勿論モデルガンやガスガンという玩具の部類に所属するもので決して実物ではありませんが、写真は、私達護国神社衛兵隊と協力関係にある米国の博物館の協力で定期的に渡米して実銃の射撃の練習をさせて頂いておりますが、その時のものです。
米国では、38式歩兵銃も99式短小銃も毎年のように値段が高騰しており、日本の銃器は値段が下がらないとして銃マニアが好んで購入しています。
米国にある日本軍の小銃は、終戦時、武装解除になった我が軍のものを母国へ大量に送ったものが現在流通しているとも、中国大陸から輸入したものであるとも言われています。
38式は、6.5mmを使用しており、比較的小さい口径のもので、相手を一発で倒すというよりは、撃って相手の戦意を消失させる程度でよいと考えたとか携帯できる弾の大きさと重さを考えれば、当時の国力と兵士の体力を考えたら、妥当な大きさだったという説がありますが、後説の方が説得力がある気がします。


1900年に入ってから38式は、その口径の大型化や軽機関銃との共通性の要求から
次期小銃の開発が進みます。口径は7.7mmと大きくなり、命中精度も上がったといわれていますが、実際には、腕のいい人であれば、狙撃には38式が適しており、ボルトを動かして次の弾を発射するまでの連続発射性にも大変優れていると思います。
1940年太平洋戦争が本格化するようになると、日本軍の主力銃はこの99式短小銃となっていきますが、全軍には行き渡っていませんでした。
さて、現在、米国でも38式も99式短小銃も実際に撃てる状態のものが多く、これが日本に渡る時には、射撃能力を完全に破壊しなければならないので、里帰りをさせてあげたいですが、果たして帰国するのがこの小銃たちにとって幸せかどうか分かりません。
この38式も99式も使用される小銃の弾は、米国でも1社しかなく、通中の弾の倍の値段がするようです。なので、米国でも非常に贅沢な小銃として有名なのです。




織幡神社で連隊旗の月並祭が実施

  神功皇后が三韓征伐にお出ましになられる際に、軍旗を編まれたとされる軍旗ゆかりの神社にこの度、護国神社衛兵隊がお守りする軍旗の月並祭を実施することとなりました。 軍旗は、すでに福岡護国神社にて御霊入れの儀式を済ませておりますので、ご神体と変わらない存在で月並祭などを定期的に行わ...