2019年12月20日金曜日

旅順陥落の光と影


1894年(明治27年)11月20日、大山巌大将率いる日本軍2万5千の兵士は遼東半島最大の拠点である旅順の攻略作戦を開始し、これをたった一日で占領した。これは、清軍が海側の防御は重砲や軽砲、機関砲などで固めていたのですが、背後の山側の防備はほとんど出来ておらず、これを日本軍に突かれる形で殲滅しました。ここで、旅順要塞があっけなく落ちてしまったのは良いのですが、大量の敗残兵が旅順の街へ流入し、さらに、遼東半島へ進撃して以来、逃げ続けた清軍兵士もここ旅順の街へ逃げ込んでいました。
その際に、負傷して置いて行かれた日本軍兵士等が清軍に捕まり、首を撥ねられたり、耳を削がれたり、手足を切り取られたりと非道の数々に日本軍兵士の復讐心も最高潮に来ていました時のタイミングで旅順の街の敗残兵掃討の命令が下されます。
そこで、その命令が下されたのが福岡歩兵24連隊の兵士たちでした。
今の西日本新聞、当時の福岡日日新聞にも復讐心に燃えた福岡の兵士の事が記事にされていました。
しかし、この敗残兵掃討は、清兵が軍服を早々と脱ぎ、民間人を装い兵士に襲い掛かるので当時の24連隊の兵士は非常に戸惑ったようで、その事を手記にしたものが記録として残っていれうようです。
当時の第1師団長の山地中将が、「これより我が軍は、敵の敗残兵の掃討を開始する。それに辺り、これを妨害するものは、市民と言えども残らず殺すべし。」との指示を出しています。24連隊の兵士の手記に死体が累々と築かれ、それもなにも感じなくなったと書いてあったようです。この錦絵は、敗残兵討伐の時のもののようで、今で言えばテロ行為を行っていた残党狩りが命ぜられ、その処断の様子を描かれたものです。
この事を、日本軍に従軍していた外国記者が「日本軍は清軍と変りなく野蛮である」書かれ、これが世界中に広まることになります。外国人記者の記事は、非常に残酷に誇張されており、後に中国側の残した記録に及んでは、おおよそ日本人の所業とは思えぬ記載内容に、その信ぴょう性は非常に疑わしいのです。その記録は、複数ありますが、その内容に一貫性がなく、未だ作戦行動中の軍隊に記述されたような勝手な振る舞いがゆるされたはずもなく、記述者の憶測も多い所から歴史学的には、参考程度にしかならないものが多い。
しかし、この記事に政府が大きく動揺し、連隊の名誉を結果的に傷つけたことは間違いないと思います。

これよりわが軍は、敵敗残兵の掃討を開始する。それに当たり、これを妨害する者は市民といえども残らず殺すべし。」



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